もしも大学一年の春に戻れたなら、どんな後悔を人は口にするだろう?
「もっと恥をかいておけばよかった。」
当たり前だ。誰だってそんなことは分かっている。
「好きって言わなかった。」
これも、当たり前。
「駆け引きの真似事なんかせず、あの夜家に行っておけばよかった。」
なんてあられもない後悔もあるだろう。
あるいは、こんな後悔もあるかもしれない。
「もっと、熱中できることを見付けられていれば。」
†
私がアルペンスキーを好きなのは、ある景色を見たからだ。
赤、青のポールが交互に立つ、誰も居ないバーン。
薄青の雪面。
遠くの山景。
周りの人の声援。
その全てが、自分の為だけに存在している。
スタート台からの景色だ。
アルペンスキーをする人間は皆、その贅沢な景色を目の当たりにする。
直後、雪上に投げ出されたアルペンスキーヤーたちは、孤独な戦いに挑む。
アドレナリン。緊迫感。スピード。衝撃。あらゆるエクストリームな言葉たちをごちゃ混ぜにした数十秒を過ごし、ゴールに辿り着く。
まずは、完走できた安心感。
心地よい疲労。
部員たちからの、温かい労いの言葉。
幸せな時間だ。
それでも。
どれだけ楽しい、幸せな時間を過ごしたとして、リザルトはいつだって、圧倒的現実を容赦なく叩きつけてくる。
タイムを映す電光掲示板の一番上にBib番号を刻んだ人間以外は、全員、敗者だ。
そして、負けて悔しくない人間など、一人もいない。
その電光掲示板を見た瞬間から、あらゆる後悔、悔しさ、憤りがこみ上げる。
それでも必死で美しい振り、先輩の振り、大人の振りをした綺麗な表情で、
「後輩のみんなが完走できてよかった!」
なんて、嘘でも本当でもない言葉を誰に向けるともなく投げる。
トレーニングを怠った。ストレッチを怠った。練習を怠った。
それでもチームメイトたちは、
「お疲れ様でした、かっこよかったです。」
「速かったです。」
としか、言ってはくれない。
シーズン中の怠け切った自分の過ごし方を、責めてくれる人はいない。
負けた悔しさの責任を取ってくれる人がいないように。
そんなレースが、もしも人生最後のレースだったら?
†
この社会では、何にも熱中出来なかった不能感を、あるいは燃え残って臭気を放つ感傷を抱え、それを誰からも見えないよう、胸の奥底に仕舞い込んだ人間だけに「大人」という称号が与えられる。
その日々を青春と名付けて過去にした者達は、胸に隠したそれを引き摺って数十年を過ごす。
それでも最後は、いつか、恋だの、愛だのが救ってくれるのだろうか?
学生時代の後悔を、たったひとり愛した恋人に、頑張ったね、偉いね、と慰められて瞼にキスでもされたなら、涙を溢し、綺麗サッパリ忘れられるのだろうか?
この瞬間のために生きてきたと思えるのか?
すべて報われるのだろうか?
なんてロマンチックで、なんて下らない人生だろう。
†
ところでこの下らない世の中で、永遠はどこか。
誰だって永遠が欲しい。
誰だって大人になんてなりたくはないのに、この世に一切の永遠が存在しないのは、十分、絶望に値する。
それでも、スキー競技者にだけは、永遠に記憶に残る一瞬が、ひとつだけある。
「あの瞬間だけは、永遠だ」と、断言できる一瞬。
アルペンスキーをやっている人間はみな、その一瞬が欲しくて欲しくてたまらくて、競技を辞められないでいる。
しかし残念ながら多くのアルペンスキーヤーは、その一瞬を手に入れられないまま競技人生を終えることになる。
馬鹿げている、と言う人は大勢いるだろう。成功する確率の限りなく低い挑戦を繰り返す。大怪我する危険だってある。
狂っている。
真っ当な意見だ。
しかし、それでもその一瞬のためだけに、365日を捧げる競技者は少なくない。
ゴールラインを切り、振り返る。
雪煙の中、数字が並んだ光る看板を睨む。
数秒間。
点滅する電光掲示板。塗り替わるBib番号。
白。この世から一切の音が消える。
†
多くのスキーヤーが恋い焦がれる、その永遠の一瞬。
そのために、
きみは、何を賭ける?
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東京医科歯科大学スキー部2年
第29回全国看護学生スキー大会 男子GS競技 優勝
舩山直人
p.s.
高峰さん、野口さん、寄稿のお誘いを頂きありがとうございました🙇